「T社という会社は、何事においても慎重で、石橋を叩いても渡らないという手堅さがある。
これだけのビッグカンパニーになると、巨大タンカーに似て小回りがききにくく、意思決定が遅くなるのは当然だろう。
だが、いったんゴーサインが出れば、総力を挙げて怒涛のごとく進撃していく。
これがT社軍団の強みである」東郷は振り返っている。
T社にとってどのようなクルマが必要かを検討し決める場が、国内企画部、海外企画部、製品企画室、商品企画室などのスタッフ部門を横割りで組織した商品企画連絡会議で、これを主宰していたのが製品企画室長を兼務していた当時常務のS紫郎だった。
エンジニアによって構成される製品企画室と、マーケティングの専門家によって構成される商品企画室の双方が参加する。
本社内でもわき上がる議論T田E二会長の決断後も、社内ではなお動きが鈍かった。
しかし、米国市場における「クレシーダ」の後継車種をどのようにすべきか議論していた社内でも、これに呼応する動きが出た。
1983年初秋に開かれたこの連絡会で、当時商品企画課長だった大地哲夫は、「クレシーダ」の後継車は従来の5ナンバーの車体仕様に縛られず、思い切ってひと回り大きい高級車にすべきる連絡会議は、実践部隊の意思決定の場として重みがあった。
79年の第2次石油危機で乗用車の需要は落ち込んだが、ラグジュアリーカーの需要は急速に回復しつつあった。
大地はこれに注目し、営業の視点から、3リットル以上の大型V6エンジンを搭載したニューモデルを同分野に投入すべきだと提案した。
国内ではすでに81年にソアラ、スープラなどの高性能スポーツ仕様車が投入され、T社の技術水準は急速に高まっていた。
エンジニアの間でも5ナンバーに縛られない高性能車の開発に挑戦したいという空気ができていた。
他の出席者もすぐにこの提案に乗った。
米国市場での苦闘米国T社が設立されたのは1957年である。
それまで米国ではセカンドカーとしてドイツ、フォルクスワーゲン(VW)社の「ビートル(かぶと虫)」が圧倒的に強かった。
米国人の中間層の人々は、一ガロンで13.6キロメートル走る排気量1600CCの「かぶと虫」を、走るのに最も経済的なクルマとして買った。
この年、米国を市場調査のため訪問したT社自動車販売社長の神谷正太郎は、欧州車の攻勢を目の当たりにして、帰国後対米輸出の重要性を自工、自販の役員に説き、急きょ米国法人の設立に踏み切った。
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